それでも彼女がした理由
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町外れに少し寂れた教会がある。
石造りで所々に苔が生えていて、どこか古めかしい空気が漂う教会だ。
しかし内装は意外にもしっかりとしていて、寧ろ神聖域らしく、そこには聖堂というのに名劣りしない荘厳さがあった。
深紅に映える絨毯に、並ぶ良質木造の長椅子。
それに何といっても、淡とした聖壇の後ろで入り込む陽光を色づけている巨大な色硝子の装飾が、無機な聖堂全体に彩りと神々しさを馨わせていた。
その光の中で十字の影が落ちているのは、硝子装飾の前に絢爛であり、しかし飽く迄素単的に設置されている十字架のモニュメントの所為である。
この十字架とその影が、この聖堂の聖域たる威厳を確立している事は明白であろう。

そんな聖堂に幾つかある扉の中で、毎日決まった時間になると、祭壇に向かって左の奥の扉が解錠される。
そこは罪人たちが罪を購う、所謂、神への懺悔の部屋なのだ。

続く石畳の上を、軽快に響く足音とは裏腹な重々しい空気を携え、一人の娘が進んだ。修道服に身を包んだ長髪の娘だった。
やけに重い扉が軋むのに、構わず戸を開くと、彼女はつかつかと部屋に入った。
部屋は狭く、四方は彩りも無い石壁。
今通った、入口兼出口である扉の対の壁には、懺悔を聞く神父の為の覗き窓があった。
この部屋からは向こう側へ行く事はできず、向こうの部屋への入り口は、聖壇向かって右の戸から入った先の廊下にあるのだ。
覗き窓の向こうの部屋には外が見える程度の窓がある様だが、この懺悔の部屋の側壁にあるのは窓ではなく、光を灯す蝋燭を立てる為の小洒落た金の燭台だけだった。

空気が重いとまで感じはしないが、無性に息苦しく、詰まりそうな空気だとは思った。
中央に小さな椅子がぽつんと置いてあるのだが、線をくねらせた様なデザインの、テラスにでも置いてありそうな洋風のその椅子はどこか浮いていた。
そこに娘がゆっくりと腰を下ろすと、椅子が軋む音と、少し遅れて神父の声が石の部屋に厭に響いた。

「貴方の罪は何ですか?」

少し、いつもの声とは違った声色であった。
救いを与えるのでも、罰を与えるのでもなく、冷静を繕ったようなどこか曖昧な声だった。

「私は…」

娘は、言葉に詰まった。
詰まりはしたが、俯いていた顔を上げると、勢いに任せるかの様にして娘は口を開いた。

「私は人を殺めました」

「…」

沈黙した。
許しの言葉が出ないどころか、追及の声も、救済や確認の声すら響きはしなかった。
然し、娘はその事に少し安堵し、無意識に上げてしまっていた両の肩に気付き、一度全身の力を抜いた。
そして、語調をほんの少し優しくして、彼女はまた口を開いた。

「女を殺しました。」

そしてまた少し沈黙する。
然し、今度は然程間もなくして声が響く。
次の言葉を紡いだのも、彼女だった。

「女は、誰よりも神を愛し、神を信じていた馬鹿な人間でした。

誰が考えたかも解らない聖書を、寓話とも知らず廃された偽典までもを愛読し、それらを真理と信じて止まず…、誰が決めたかも解らない戒や規律を絶対のものだと疑いもせず、仕舞には女は愚かしくも毎日神の御名の御前に跪くのです。

彼女は彼女の神を誰よりも愛し、誰よりも愛されていると信じ、誰よりも見つめていたのです。

女は身寄りの無い無力な娘でした。
赤ん坊の頃に森で拾われた娘でした。然し彼女は彼女の生涯で両親を憎んだことは決してありませんでした。
その点に於いてはきっと自己暗示でもなく、それが女の本心だったのでしょう。
戦争が長く続き不安定で、民のこころまでもが貧しくあった当時、女の様な捨て子は珍しくもなく、どこにでもいました。
子を捨てる親も、殆どは仕方の無いような理由で、誰にとっても理不尽な宿命だったと、女は理解していたのです。いいえ、諦めていたのです。
彼女は彼女を産み落とした母を、父を、神を心から愛していました。

美しいものを見つめられる瞳をくれたこと

世界に満ち輝く音を余さず聞き取れる耳をくれたこと

感情を伝えるための口や言葉をくれたこと

大切なものに触れることができる両の手をくれたこと

立ち上がり自らの道を歩み駈けることのできる足をくれたこと

あたたかさを感じることのできる肌をくれたこと

愛しいと感じる心をくれたこと

そしてその愛しさで溢れる世界に存在することができる

彼女に命をくれたこと…―


そうである事が当たり前になっていた女は、もしかしたらそれが自己暗示だという感覚を無意識に心に沈め続けながらも、その感覚に麻痺していただけだったのかもしれません。

しかし、彼女の世界において、その博愛はまごうかたなき真実の信仰でした。

女は揺るがぬ慈愛で誰をも愛し、不徳の為に不徳を愛し祈り、また善を愛するが故に善に祈りました。

しかし、そんな女の揺るぎの無い信仰心は、ある時にいとも容易く崩れ去ってしまいました。
長年重ねてきた呪縛とも言えるようなその信仰は、ほんのささいな感情の芽生えにより、脆くも崩れ去ったのです。

女を蝕んだのは不徳でした。

そしてそれは、彼女の全てで、彼女の心であった、愛そのものだったのです。

女は、一人の男性を愛してしまいました。
彼の記憶が色濃く焼き付いて離れず、近くにいるだけでその心臓は高鳴りました。
それはどうしても抑えられない感情でした。

愛はいつしか下心へと変わり、恋へと変わりました。

女は無償の愛を与えなければならなかったのです。
見返りを求める事は、絶対にあってはならないのです。

しかし、彼女は恋をしてしまったのです。
女は呵責を感じました。
恋をした事にではありません。
それは、相手に妻があった事にでした。
女は奪いたいと思い、そして女は人の不幸を願ったのです。
不徳の為せる業以前に、私はそんな彼女がどうしても許せませんでした。
彼女は彼女を許せず、ならば誰を許せるというのでしょう。

女は最早神にパラディオンとして祷る資格を失いました。
然し、不徳に溺れた彼女は、気付いてしまったのです…。」


…そこまで一気に言うと、彼女は少し口籠もった。
神父は沈黙して次の言葉を待っている様だが、全く様子が伺えない。
そんな中、力強く、彼女の声は響いた。

「貴方が…神なのですね」



…世界が
沈黙した。

沈黙すると、次第に聞こえてきた。
この音は、他でもない、神父の嗚咽だった。

「何故…何故貴方は、殺さなければならなかったのですか…?」

悲痛な声が、響いた。

女は涙を流しながら、しかし俯かず、しっかりと前を見つめて口を開いた。

「これが全てです。これが、私が殺した理由です。」

「では私は何ですか、私は、神ではありません。うっかりと殺生をしてしまいます。私欲に溺れます。何かを欲します。然し何故貴女は、貴女はそうも自らを戒めるのですか?」

泣き崩れた声はぐちゃぐちゃだった。
娘は全身に力を入れて、神父の声をどこかいとおしそうに聞いた。

「私には妻子はいない!」

叫ぶように神父が言った。

「…」

女は黙って首を横に振った。

「では私はどうすればいい!?」

神父が叫んだ。
怒りに満ちているというより、悲しみに暮れた叫びだった。

「触れたくともここから触れることもかなわず、ただ見ている事しか出来ない。戸を出て行けばお前は消えてしまうのだろう。では私はどうしたらいい?教えてくれ、教えてくれよ」

「いえ」

娘は席を立った。

「行くな、答えろ!私は、では私はお前を愛してはいけなかったのか、ならこの聖書は、聖壇は、聖服はなんだ、要らぬ。要らぬから…」

娘は振り返らず立ち止まった。

「何故来た、行くならなぜ来るのだ、……私は…」

「私を殺した理由は、解せませんか神父様」

娘は戸から一歩出て、振り向かずに言い放った。

ぞして戸が閉まる直前に彼女は精一杯の勇気を振り絞って、嗚咽が交じらぬ様神父に言うのだ

「聖シオンの祝福あれ」

と。

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