1/1頁 「おれは、お前が、好きなんだ」 普段は絶対に自分の事を"私"と呼ぶ。 社会に出て、家族や友人以外の前で自分の事を"おれ"と呼んだのは初めてだった。 最初は、仕事場で平気で菓子を喰う姿がとても疎ましかった。 仕事を熟し誰かに評価されている姿も、人望が厚い点も疎んでいた。 今思えば其処から、その感情から唯の嫉妬だったのかもしれない。 然し毎日君を疎ましく思って眺めている内に、次第に何処か君が羨ましくなった。 仕事をしている時で無くても何時も其ればかりが頭に浮かんで来て、鬱陶しかった。 朝、何気無く入ったコンビニで君が何時も食べている板チョコを見付けた。 初めてじっくりと見たが、見た事も無いメーカーの物で、他の物と比べて一番安い。二枚で百円だった。 私は徐に其れが欲しくなった。 別に脳が糖分を求めていた訳ではなかった。 然し、多分味覚を共有したかったのかもしれない。 私は板チョコを二枚手に取り、半ば無意識にレジに持っていった。 買ったチョコレートの片方は、上着の右のポケットに仕舞った。 そして会社に着く前に、もう一つの板チョコの包装を破って見る。 ドキドキした。 何時もと同じ香りが漂って、胸の鼓動が高鳴った。 最初の頃は甘ったるい香りが執濃くて如何も好きになれ無かったのだが、最近はそうでも無いのだ。 私は期待していた。 私のちっぽけな自尊心は其れを認めたくは無かったが、確かに其処に期待が在ったのは事実だった。 そして、其れを一欠片齧った。 苦い。 苦かった。 私は甘い物が嫌いなので、或いは丁度良い味だった。 然し予想していた以上に其れは苦かったのだ。 其処で私のちっぽけな自尊心が傷付いた。 私は半分自棄になって、残りを一気に口に詰め込んで咀嚼した。 只管、咀嚼した。 口の中は苦さでぐちゃぐちゃだった。 序でに頭と、腹の上辺りもぐちゃぐちゃだった。 いっその事、鼻血が出ればいいと思った。 その日一日、私は機嫌が頗る良く無かった。 顔を見るのは嫌だったし、目を合わせる事さえ憚られた。 然し、夜、君が残業を終えてオフィスから出ようと席を立つ姿が目に入ると、私は君から目が離せ無くなった。 眺めながら腹の上辺りを回る感覚は、今迄感じた事の無い変な気持ちだった。 何だろうと思った。 そして君が退室するのを見届けてから、溜息を吐いた。 私にはまだあと少し、仕事が残っていたのだ。 機嫌が悪いからか、五分もあれば終わりそうな残りの仕事も大変億劫だった。 こんな日は帰りに酒を呑もうと決めた。 然し何時も誘っている後輩は先に上がっているし、同僚も今日は見ていない。 一人酒かと思い、眉間に皺を寄せながら半ば強引に書類を片付けた。 残業の社員を横目に挨拶し、部屋を出ると少しばかり気持が落ち着いた。 然しエレベータが上がって来て、其の戸が開くと、私は内臓が分子化して散々に砕け散って仕舞った様な感覚に襲われた。 詰り、私の体が空虚になったのだ。 エレベータの中には君がいた。 奥に倒れる様にして座り込んで、呆とした顔をしている。 ネクタイが糸差れていた。 君は力無く私を見上げた。 何故か其れに無性に腹が立った。 其処で私はエレベータに乗り込むと直ぐ様君に背を向けた。 顔を見せたく無かったし、関わりたくも無かった。 そして長い沈黙の後に、エレベータの戸は一階で開いた。 一歩、二歩、 踏み出した私の足は其処で止まった。 衝動だ。衝動的に顔を見たくなる。此れは何だ、嗚呼、君が答える可き事なんだ、苛々する。 そうだ、苛々する。 「…」 振り返って見下ろすが、何も気の利いた言葉が浮かば無かった。 悔しくて顔が引きつりそうだった。 そうだ、もう其処に自尊心も何も有りはしない。 私は気の利いた言葉で君を慰めたかった。 然し出来ない、出来なかったのだ。 「…」 其処で、ポケットに入っているチョコレートに気付いた。 反応も見たかったが、其れより私は君を喜ばせたかった。 喜ばせたくて、君にチョコレートを差し出した。 其れを見て、君は今まで私に見せた事も無い顔をした。 其れは驚く様な、喜ぶ様な、悲しむ様な、躊躇う様な、そんな表情だった。 そして君はチョコレートに手を伸ばした。 嗚呼、其処でだ、もう意味が分からない。 手と、手が、接触したのだ。 事故に遇った様な気分だった。 体に一陣の電光が走った。 焦げて仕舞いそうで、身体中が痛かった。苦しかった。 其処でやっとおれの口が開いてくれた。 「きっと…」 嗚呼、困った。 言葉が詰まって仕舞った。 この儘無意識に全て言って仕舞えば良い物を、言葉は此処で区切れて仕舞った。 「…」 おれの手を掴んだまま、お前はもう正気の目でおれを見上げている。 続きの言葉を待っているのだ。 気が狂いそうだった。 何故か心臓は高鳴る、嗚呼煩い、煩い。 「…おれは、」 言って仕舞おう。 「おれは、お前が、好きなんだ」 そして、心臓の音が止んだ。 頭のぐちゃぐちゃも、腹の上辺りのぐちゃぐちゃも、あんなに煩く響いていた心臓の鼓動も、ごちゃごちゃした耳鳴りも呼吸も、全て一瞬で消えた。 お前の表情が見えない。 見えないんだ。 それで、おれはお前の手をぶんと振り払った。 お前の手が力なく弾け、バンと床にぶつかる。 態勢は変わら無い、お前はずっとこちらを見ている筈なのに、目が見えないんだ。 チョコレートが弾け飛んだ。 その音が、その様が、口惜しい。 悔しくて歯を食い縛る。 然しお前の、お前の顔が見えないんだ。 そしておれはまだ座り込んでいたお前の胸座を右足で踏み付けた。 捻り込む様にして革靴を胸座に埋めた。 お前が苦しそうな声を洩らすのを聞いて、やっと頭がクリアになった。 「ふざけるな」 俺は、叫んだ。 「冗談じゃない…」 顔が、見えた。 「冗談なんかじゃない。」 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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